死性
古井由吉と平野啓一郎による対談(「新潮」2011年10月号)中の「be dead とはどういうことか」というサブタイトルの部分より:
平野:この前、中世の神秘主義者マイスター・エックハルトが「イエス」と「神」と「神性」を分けて議論するのをヒントに思いついたんですが、古井さんの作品では、「死者」と「死」と、造語ですがいわば「死性」が区別されていて、さらに合わせ鏡のように「生者」と「生」と「生性」が考えられているのではないか。
平野:be がそもそもの存在で、それがdead の状態であるということ。それが、生者が死性を帯びる、という表現になるのか。
平野啓一郎は、よく勉強している作家だとおもう。
しかし、頭の中だけで考えようとして「本の渉猟」に終わってしまうのではなく、なにか別のルートを示してもらいたいともおもう。
平野:この前、中世の神秘主義者マイスター・エックハルトが「イエス」と「神」と「神性」を分けて議論するのをヒントに思いついたんですが、古井さんの作品では、「死者」と「死」と、造語ですがいわば「死性」が区別されていて、さらに合わせ鏡のように「生者」と「生」と「生性」が考えられているのではないか。
平野:be がそもそもの存在で、それがdead の状態であるということ。それが、生者が死性を帯びる、という表現になるのか。
平野啓一郎は、よく勉強している作家だとおもう。
しかし、頭の中だけで考えようとして「本の渉猟」に終わってしまうのではなく、なにか別のルートを示してもらいたいともおもう。
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