「発見」を「発見」として気づくのは脳内の作用かもしれないが、およそ「身体」というものを介さない「発見」など考えられるだろうか。
「難行・苦行」が「修行」となるのはなぜか。
「修行」をしていくと「感覚が研ぎ澄まされていく」という。
それは「難行・苦行」によって身体が「衰弱」していくからである、とぼくは考える。
「頑健な身体」にとっては何ほどのものでもないことが、「衰弱した身体」には重くこたえる。
これが「感覚が研ぎ澄まされる」ということの実体だ。
だから、「言葉を発する側」にとって最重要なのは、「言葉の体力」である。
2011-12-28 01:39
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