いま・ここ

日本語と、英語などの西欧語や中国語とは本質的に翻訳不可能であり、(略)日本語が語り手の今・ここ、を叙述する言語であり、(略)日本語はあくまで語り手あっての言語であること、「言語の性質によって造られる文化が制約される」(サビア=ウォーフの仮説)により日本文化は日本語の性質に深く根ざしていること、日本語の文学作品は筆者自身が語っているという視点を抜きに解釈すると日本人が読んでも誤読してしまうこと・・・

以上、熊倉千之著『日本語の深層』への、ファンクマスター氏によるレビューより


人間の生きている真実相においては、明らかに、身心一如であり、性相不二である。というのは、身と心が二つながら共同し働き合っているからこそ、われわれの生の営みのすべてが成り立つのであり、身体のみの生も、心だけの生もあり得ない。同じく、一切の事物は、名前としての普遍的・不変的局面(性)と、個体としての特殊的・変移的局面(相)とを同時的に併せもつものである。人間的生とは、身心一如の総合体・相関体としてのみ存立可能である。(略)生死の苦しみからの解脱を、遠い未来としての死や涅槃の内に引き延ばし追い求めるのではなく、いまここに、自分の足元に、自分の手で、安心解脱や涅槃寂静を見出すことが、正しい禅哲学に立脚した、真面目な人生態度に他ならない。

以上、有福孝岳著「『正法眼蔵』の心」より


禅哲学の創生に日本語の性質が根底からかかわっている可能性をうかがわせる二つの発言である。
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