三教指帰

空海の手になる著書に「三教帰(さんごうしいき)」というのがある。

儒教、道教、仏教を代表する三人の人物が登場して、ある放蕩息子を説得する、という話である。

このうち、儒教と道教の代表者たちはそれぞれ、それなりの年齢であると思われるが、仏教の代表者は「青年僧侶」となっている。
この著作は唐への留学前の若い空海が書いたものなので、自分になぞらえて仏教の代表者を若い人にしたとも考えられる。
しかし、今晩、ぼくは別の見方に気づいた。

歳のいった儒教と道教の代表者は先に世を去り、青年僧侶が生き残る。
つまり、儒教と道教が滅びたのちまで仏教は生き長らえる。


人類の最後、とはどのようなものだろう。

神あるいは仏が再降臨して「救い」あるいは「裁き」を行なうのではなく、人類が最後の一人になってから、その人が息を引き取るまでの百分の一秒でも、その最後の人の信じる宗教の神あるいは仏の世界がこの地上に実現され、この世界は幕となるのではないか・・・。

宗教な何教にしたところで、その信者がすべてこの世を去ってしまえば、存在意義がなくなるのだ。


となると、現実社会においても、どの宗教の信者集団が生き残るか、が「どの宗教が最終的に残るか」ということにもかかわってくる、ということになる。
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