創作ということ-2

数回前の「創作ということ」では、日野啓三も古井由吉と似たようなことを言っている、と書きましたが、木山捷平も同じようなことを書いていたので、きょうはそれを引用します。

須木間はまだ書くことは何もきまっていなかった。が、原稿用紙はひろげねばならなかった。ひろげていればどうにかなって来るものである。
しかし須木間がこの技術をおぼえたのは、ごく最近のことだった。須木間は以前、原稿というものは書くことがきまってから、ペンを取るものだときめていた。理想論としてはそうであろうが、須木間の場合は時間の無駄づかいをしたようなものだった。
三十年がかりで覚えた新技術だったので、うるべく活用するようにしているが、しかしまだ覚えて日が浅いので、どうにかなりそうでどうにもならぬことも、タマにはある。そこがむずかしい所である。

炬燵に戻ってもう一度原稿用紙に向ったが、頭の中が混乱して原稿は書けそうになかった。材料はいくらでもありそうな気がするのに、無かった。無いものがペンに乗った時材料になるのである。その途中の操作がむずかしいのである。

木山捷平「雨」(1967年)より。
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