小説とは
以下は、石川淳の『文林通信』(1969年12月~1971年11月までの「文芸時評」をまとめたもの)からの引用:
ただ作品の内側にいる作者のほうから、たのしくは読めても方法上とくに発明の跡が、すくなくとも発明に向う努力のけはいがあるようにも見えないこの文章(清岡卓行著「千年も遅く」のこと)を、つい「小説」というためには、作者の心にいくぶんの屈折があってもよさそうなものではないか。作者の小説観の深みをほのめかすべきこの屈折の影が「付記」(「千年も遅く」の最後の章)ににじみ出て来ないのは、談はなはだ容易のように、わたしはおもう。
これまでに、もう随分前に読んだものも含めて「小説の書き方」というような本を何冊か読んできたが、そのどれにも「小説とは、こういうもの」という定義が書かれていなかった。というよりむしろ、「小説などというものは、そもそも定義できないもの」とする書が多かったなかで、いまにして初めて聞く「小説とは」という見解で、貴重な一文とおもう。
ただ作品の内側にいる作者のほうから、たのしくは読めても方法上とくに発明の跡が、すくなくとも発明に向う努力のけはいがあるようにも見えないこの文章(清岡卓行著「千年も遅く」のこと)を、つい「小説」というためには、作者の心にいくぶんの屈折があってもよさそうなものではないか。作者の小説観の深みをほのめかすべきこの屈折の影が「付記」(「千年も遅く」の最後の章)ににじみ出て来ないのは、談はなはだ容易のように、わたしはおもう。
これまでに、もう随分前に読んだものも含めて「小説の書き方」というような本を何冊か読んできたが、そのどれにも「小説とは、こういうもの」という定義が書かれていなかった。というよりむしろ、「小説などというものは、そもそも定義できないもの」とする書が多かったなかで、いまにして初めて聞く「小説とは」という見解で、貴重な一文とおもう。
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