「ことば」と「表現」の相互関係

初めて読んだときから気になっている古井由吉の「不器用者の弁明」の最後の部分を、まず、引用する:

その道(表現活動の道)をしばらくやみくもに突き進んでいくと、やがて私の乏しい表現力は底をついて、私はまったくの空虚を前にして為すすべを知らない。それでも、いったん搔き立てられた私の表現欲はまだしばらく燃えているので、私はもうひと粘り空虚と相対して、結局は、自分の力を超えたはずの表現をひとつかふたつ把み取ってくることになるようだ。

15年以上にわたって、たびたび思い返していたこの箇所について、きょうついに、「ある解説」(とぼくが感じた)をなす文章に出会うことができた。

以下は、舟木亨著『メルロ=ポンティ入門』からの引用:

「語る」ということは、思考したものを表現するということではない。その真の意味は、語られているあいでに予期しなかったことが語られはじめたのに気づいても、それにつきあって語ることを推し進め、その結果として語られたことに驚くことができるということである。メルロ=ポンティは、そのとき、思考も真の思考といえるのだと考える。

引用は以上。


メルロ=ポンティはいかに「実作者」に寄り添っているか!
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