好きなもの
「好きなもの」を見つけることが、なぜ大事なのか。
それは「ストレス発散になるから」というようなことではない。
それは「義務でやること」とは根本的に異なる「ものごとのやり方」を知ることができるからである。
それは「ストレス発散になるから」というようなことではない。
それは「義務でやること」とは根本的に異なる「ものごとのやり方」を知ることができるからである。
タグ:ものごとのやり方
ウォーミングアップ
1月4 日、快晴
6日からの始動に向けて自然からのエネルギー補給も十分に、意欲もゆっくり充ちてきている。
6日からの始動に向けて自然からのエネルギー補給も十分に、意欲もゆっくり充ちてきている。
自然
1月2日から伊豆高原に旅行に来ている。
夕方入った大浴場からは、東京よりいくぶん遅い夕暮れが見られた。
自然のなかで暮らしたい。
夕方入った大浴場からは、東京よりいくぶん遅い夕暮れが見られた。
自然のなかで暮らしたい。
想定外
「内」が「外」へ溢れ出してきている。
ある世代の作家たちをひと括りにして、ある「呼称」をあたえる。
その最後の例となった「内向の世代」。
その人たちた四十年にわたって積み重ねてきたものが、いま溢れ出してきている。
が、それはかれらの意思によるのではない。
ただ、かれらを囲んできた桶が壊れてしまったのだ。
ある世代の作家たちをひと括りにして、ある「呼称」をあたえる。
その最後の例となった「内向の世代」。
その人たちた四十年にわたって積み重ねてきたものが、いま溢れ出してきている。
が、それはかれらの意思によるのではない。
ただ、かれらを囲んできた桶が壊れてしまったのだ。
ゆうメール
おそらく2011年最後の購入になるであろう本が、12月30日にゆうメールで届いた。
その本は、『四国遍路と世界の巡礼』。
講談社文芸文庫版『山躁賦』(古井由吉著・単行本は1982年に刊行)の「著者から読者へ」という短文のタイトルが「遅れて来た巡礼者」となっている。
その単行本の刊行からさらに三十年遅れて、『四国遍路と世界の巡礼』を年明けから読む予定にしている。
その本は、『四国遍路と世界の巡礼』。
講談社文芸文庫版『山躁賦』(古井由吉著・単行本は1982年に刊行)の「著者から読者へ」という短文のタイトルが「遅れて来た巡礼者」となっている。
その単行本の刊行からさらに三十年遅れて、『四国遍路と世界の巡礼』を年明けから読む予定にしている。
同行二人
これは、多くの日本人が、少なくとも「耳にした言葉」であろう。
四国遍路をする人のかぶる笠に墨書されている。
「二人」とは「弘法大師」と「自分」である。
ではその「二人」が「同行する」とはどういうことか。
弘法大師が「身体的」に「同行」してくれるわけではない。
それならそれは、「心」か「霊」か「魂」か、はたまた何か別のものなのか。
およそ「身体」以外のすべてなのかもしれない。
「お遍路さんが絶えることはない」という事実だけが、ただ続いていく。
四国遍路をする人のかぶる笠に墨書されている。
「二人」とは「弘法大師」と「自分」である。
ではその「二人」が「同行する」とはどういうことか。
弘法大師が「身体的」に「同行」してくれるわけではない。
それならそれは、「心」か「霊」か「魂」か、はたまた何か別のものなのか。
およそ「身体」以外のすべてなのかもしれない。
「お遍路さんが絶えることはない」という事実だけが、ただ続いていく。
巡礼
「巡礼の旅」によって「癒すべきもの」はまずもって「身体」であり、「心」ではない。
多くの人が「巡礼によって癒されるのは心である」と思っている背景には
本来、日本人には受け容れづらい「心身二元論」があるのだと思う。
多くの人が「巡礼によって癒されるのは心である」と思っている背景には
本来、日本人には受け容れづらい「心身二元論」があるのだと思う。
「発見」の基礎
「発見」を「発見」として気づくのは脳内の作用かもしれないが、およそ「身体」というものを介さない「発見」など考えられるだろうか。
「難行・苦行」が「修行」となるのはなぜか。
「修行」をしていくと「感覚が研ぎ澄まされていく」という。
それは「難行・苦行」によって身体が「衰弱」していくからである、とぼくは考える。
「頑健な身体」にとっては何ほどのものでもないことが、「衰弱した身体」には重くこたえる。
これが「感覚が研ぎ澄まされる」ということの実体だ。
だから、「言葉を発する側」にとって最重要なのは、「言葉の体力」である。
「難行・苦行」が「修行」となるのはなぜか。
「修行」をしていくと「感覚が研ぎ澄まされていく」という。
それは「難行・苦行」によって身体が「衰弱」していくからである、とぼくは考える。
「頑健な身体」にとっては何ほどのものでもないことが、「衰弱した身体」には重くこたえる。
これが「感覚が研ぎ澄まされる」ということの実体だ。
だから、「言葉を発する側」にとって最重要なのは、「言葉の体力」である。
気力・知力・体力
「言葉の力」とは、よくいうけれど、言葉を「発信」する側からしたら、
「言葉の気力」、「言葉の知力」、「言葉の体力」
のうち、もっとも大切なものはどれだろう。
「言葉の気力」、「言葉の知力」、「言葉の体力」
のうち、もっとも大切なものはどれだろう。