本との出会い

きのう時間つぶしのつもりで入った書店で、舟木亨著『メルロ=ポンティ入門』(ちくま新書・2000年)という本を見つけ、買ってしまった。
20年ほど前にはメルロ=ポンティをよく読んでいた(理解していたかどうかは別)。
2年前くらい前からは、ちくま新書は書店で棚を結構よく見ていたのに、この本は知らなかった。

2箇所の引用と「目次」を抄録する。

(表紙から)
……メルロ=ポンティは、知覚やしぐさの原始的な経験から出発して世界と歴史を捉えなおし、真理の意味をあきらかにしようとしていた。ヒーローや愛など「人生の意味」をテーマにしつつ、かれの問題意識を問いただしていこうと思う。

(巻末の紹介文から)
世界は何でできているのか、という問いから発し、現代思想が抱える全射程をカバーするメルロ=ポンティ哲学の核心に迫る入門書。

(目次)
序章
 哲学に入門する

第1章 ヒーロー

第2章 愛

第3章 思考と実践

第4章 真実を語ることば
 ことばの意味
 ことばについてのことば
 しぐさとしてのことば
 意味の哲学
 概念
 ことばの起源
 ことばと言語
 言語の歴史
 わたしは語る

終章

メルロ=ポンティ(1908~1961)


長命であれば、「ノーベル文学賞」をもらえたかもしれない、などと、ぼくはひとりでおもう。
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文章の種類

おとといときのうの2日で、「うつ病編集長の退職日記」という本を読んだ。
これは、新しく文章を書くためのヒントにでもなれば、という思いで読んだのだが、そのなかから2箇所、引用する:

(休職中の著者がメールで)よっしゃ、この機会に一つ純文学大作でもものしてやろう、などと思ってはみるのですが、頭は働かず、体は動かず、いちいちやることなすこと面倒くさくなって、すぐにごろごろ横になって「ゆったりとした日々」を続けております。

>よっしゃ、この機会に一つ純文学大作でもものしてやろう、などと
>いよっ、さすが飯富さん! と思いました。そうでなくっちゃ!
>でも、書けない……。それもそうだと思いました(ごめんなさい)。だって、ブンガクは消耗が激しすぎるもん……>と思います。

創作をしながらブログを書いている皆様、消耗しすぎないようご注意ください!
タグ:純文学 消耗
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<後熟>

以下は、辻原登『東京大学で世界文学を学ぶ』の「まえがき」からの引用:

すぐれが原作は<死後の生>の中で、読み継がれることによって<後熟>してゆく。併行して、その翻訳作品も読み継がれることによって<後熟>してゆき、その外国語の深化に力を貸す。さらに深化した外国語、つまり日本語によって、原作が新たに訳し直されるとしたら……、われわれの再読のよろこびは尽きることがない。

引用は以上。

引用中の「原作」を「作品」に、「外国語」を「読者」に置き換えれば、通常の「日本語での読書」にも、この指摘はあてはまるだろう。
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炎暑、豪雨、秋晴れ、月夜・・・

日夜、自室でせっせとブログを綴る方々をおもふ・・・

感想

ぼくの文章仲間で、70代の女性から、『骨董』を読んで、ということで、下記のような感想をいただきました。

物をなおざりにせず、いつも厳しく眺め思考する、それが実を結んだのだと思います。
一日一日を大切にすることがどんなに大切か、ということをあの本は教えています。
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理性

前回も話題に取り上げた、是枝裕和さんの、同じ番組での以下の発言について、ぼくの思ったことを、今回は書こうとおもう。

「生活保護をめぐるドキュメンタリーを制作していたときに『社会ってけっこう複雑だな』とおもわされた」

1.「複雑か」「単純か」というのは、相対的な評価である。

2.だから、是枝裕和さんの発言に対するぼくの見解は、「社会は複雑である」、ではなく、「人間の理性は単純である」ということになる。

3.つまり、「理性という単純なもの」で理解しようとすると、「複雑な社会も単純化されて見えてしまう」ということ。

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フィクションの存在意義

昨夜、「小林麻耶の本に会いたい」をみていたところ、ゲストが映画監督の是枝裕和さんで、「フィクションとノンフィクションの違い」ということについて、考えさせられた。

1.ノンフィクション:体験者がいないと成立しない。
2.フィクション:体験者がいなくても成立する。
3.「自分の死を体験した人はいない」
4.ゆえに、「自分の死」を描くことは、「フィクション特有のテーマ」であり、ここにフィクションの存在意義がある、と思った。
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文学賞応募が目指すところ

9月26日締め切りの「木山捷平短編小説賞」の応募作品を、きのう投函した。

つぎなる目標は、11月30日締め切り、50枚以内の「室生犀星文学賞」。
過去の受賞作は読んだことはないけれど、一応、室生犀星の小説、「杏っ子」と「かげろふの日記遺文」をアマゾンで注文した。
23日、到着予定。


しかし、とおもう。

この世に存在する文学作品(文学だけとはかぎらないが)は、すべて、ひとつ残らず「誰か」が書いたものである。それならば、すべての作品はその作者の「刻印」を捺されていることになる。
現に、『夜明けの家』の帯には、「古井文学の到達点!」という文言が刷られている。
「自称」ではなく、人から「誰誰文学」といわれるようになることが、一流の証しなのか?

そういう意味でも、「木山」とか「室生」とか個人名のついている「傾向」のありそうな「文学賞」より、文芸誌が主催している「新潮」、「群像」、「文学界」といった「文学賞」のほうがやはりレベルが高いのかもしれない・・・。
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古典基礎語辞典

9月21日の朝日新聞の朝刊で、大野晋編『古典基礎語辞典』が、ぼくが自費出版をしたのと同じ「角川学芸出版」から10月20日に刊行されることを、大江健三郎の書いた記事で知った。

さっそく、アマゾンで見てみると、以下のような「帯」の文を、大江自身が書いていた。


【あはれ。カナシとは違う。事態に向う共感という、根底の姿勢がある。】『源氏』を引きながらのさらに深い指摘に、私は大震災の現場で周囲を心遣いしつつ語られる女性に受けた感銘を思う。「先生は亡くなっていない、辞書を開くと教えてもらえる」。井上ひさしの預言は、この豊かさも語り口の伸びやかさも突出する新著で実現された。
                                              大江健三郎
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あたらしい小説

今晩、石川淳の『文林通信』を読み終えた。

そのなかから、古井由吉について書かれた部分を引用します。

わたしの見るかぎりでは、古井君は現在の日本の文学状況の中にあって、当人の意図がどうであろうと、ともかく当人なりに「あたらしい小説の形式をさがしもとめ」ているのではないかとおもう。


ここで石川淳がいう「新しさ」と同じものかどうかはわからないが、古井由吉について小川国夫がいっていることも、以下に引用します。

いわば、肉体の記憶の中から、物の意味を探し出そうとする。これが古井が独特な文学者である第一の理由だといえる。

ちなみに、第二の理由として小川国夫は以下のように書いています。

私はさらに、古井の扱っている病気について言及しなければならない。これこそ彼の文学の鍵なのに違いない。
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