3人の詩人たち

用語の定義
 マーヒーヤ:普遍的「本質」
 フウィーヤ:個体的「本質」

「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と門弟に教えた芭蕉は、「本質」論の見地からすれば、事物の普遍的「本質」、マーヒーヤ、の実在を信じる人であった。だが、この普遍的「本質」を普遍的実在のままではなく、個物の個的実在性として直観すべきことを彼は説いた。言いかえれば、マーヒーヤのフウィーヤへの転換を問題とした。マーヒーヤが突如としてフウィーヤに転成する瞬間がある。この「本質」の次元転換の微妙な瞬間が間髪を容れず詩的言語に結晶する。俳句とは、芭蕉にとって、実存的緊迫に充ちたこの瞬間のポエジーであった。

だが、同じく存在の真相を探る詩人といっても、リルケのように、個的存在者のフウィーヤだけに意識の焦点を合わせて、ひたすらその方向に存在の真相を追求していく人もある。

同じく存在の意識体験的な真相開明に執拗な情熱を抱きながら、しかも一切の「即物的直視」を排除して、マーヒーヤをそのイデア的純粋性においてのみ直観しようとする詩人もある。そのきわめて顕著な例を、私はマラルメに見る。


以上、井筒俊彦著『意識と本質』より
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