苦行
仏教は、なるほど一方においては「心の宗教」として非常に観念論的・唯心論的一面をもっているが、他方においては「行の宗教」として極めて実践的・体験的側面をもっている。「行」は何といっても人間自身がおのれの身体をもって具体的・現実的に営むもので、決して観念的な事柄ではない。
人間は、行を通じて大自然や宇宙と一体不二であることを経験し実感し実証する。
以上2箇所、有福孝岳著「『正法眼蔵』の心」より
言葉による了解というものは、論理性と音楽性が共振れを起こすところで、はじめて生じるのではないか。
以上、古井由吉「翻訳から創作へ」より
「共振れ」という表現が、「実践的・体験的側面」とどこかでつながり合うような気がする。
ともあれ、「音楽性」において波長の合わない人とコミュニケーションを取るということは、私にとってまたとない苦行である。
人間は、行を通じて大自然や宇宙と一体不二であることを経験し実感し実証する。
以上2箇所、有福孝岳著「『正法眼蔵』の心」より
言葉による了解というものは、論理性と音楽性が共振れを起こすところで、はじめて生じるのではないか。
以上、古井由吉「翻訳から創作へ」より
「共振れ」という表現が、「実践的・体験的側面」とどこかでつながり合うような気がする。
ともあれ、「音楽性」において波長の合わない人とコミュニケーションを取るということは、私にとってまたとない苦行である。