以下、長くなるが該当作のなかった「第145回芥川賞」での、宮本輝氏の「選評」から引用する。

今回の候補作六篇、どれも上手に書かれている。その点に関しては、私は全否定する作品はひとつもなかった。
しかし、文学の感動という、芥川賞の根幹を成す一点に、たとえ半歩でも踏み込みかけている作品もなかった。
どれも小手先の技で大海の表面の波を描いて、その深部の大きな潮の、押しとどめることのできない力の凄さに、いささかでも心を向けようとした形跡がないのだ。
これは今回の六人の書き手だけではなく、もう何十年もつづく日本人の精神構造でもある。ひとりの何の取り柄もなさそうな無名の人間の底に眠る巨大な力を無視し、なおざりにする社会が育つことによって、表面のさざ波ばかりに耳目が集まり、こざかしいスキルが褒め讃えられるようになり、偽せ物が本物としてあがめられる。
そのような風潮の典型的な結果としての、今回の候補作六篇であったと私は思っている。


文中に「心を向けようとした形跡」という表現がでてくる。
またしても、「心」である。
「心」は存在してもそれが何かに「向けられていない」のか、そもそも「何かに向けるべきもの」としての「心」が存在していないのか。
では、いま、そしてこれから、どうすればいいのか?

「心」を「振り向かせる」ものを書く、ないしはその対象となる「心そのもの」を「目覚めさせ」なければならない。
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