良質さ

自分を正当化したい、自分を正しく賢く、ときには美しく見せたいという下心は、どんなにすぐれた文章にもはたらいている。ただ、良い文章は上手下手にかかわらず、他者への洞察によって自分を相対化しようとつとめ、しかも相対化しきれない自分をあらわすものだ。自分が結局は自分でしかないことに、許しを求めているような表情が、良い文章にはどこかしらうかがわれる。

古井由吉「表現のくふう」より


東日本大震災後の日本人の行動について、それをたたえる声が世界から寄せられているという。それを鼻にかけるわけではないが、私もそうした声は素直に受け容れていいとおもう。

「それにつけても」、である。日本人にそうした行動をとらせる何かが、現在の文学の世界の文章、特にベストセラーなどにおいては、鳴りをひそめてしまっているのではないか、と思わされる。
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涼しい音

きょうは前線の南下にともない、いっときはかなりの降りとなったが、それもあがるとそれなりに涼しくなった。
ところで「涼」という字を「りょう」と読んだ場合と、「すずしさ」と読んだ場合は、どこか似て非なるものを指しているのではないかとおもった。

「涼(りょう)」とは、暑さのなかに一瞬まぎれ込むものであるのに対して、「すずしさ」はすでに秋の気配だ。

たとえ今夜の夜気が「すずしさ」のはしりだとしても、きのうまでの暑さをおもえば、はじめのうちは「りょう」と感じられ、風鈴の音のように「涼(りょう)をよぶもの」ともおもうが、いまは車の音などが「涼(すず)しく」聞こえる。
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虚構

ものを表現するのに二つの仕方がある。一つはありのままに示すもので、もう一つは芸術によってそれらを喚起するものである。文字通りの《再現》を避けることによって、もっとすぐれた美と偉大さに達するわけである。

以上、マティス著『画家のノート』より引用


ここで言われていることこそ、最近あまり耳にしなくなったが、「虚構」という言葉の意味だろう。
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時代

前回言及した束芋さんの『断面の世代』は、2010年に開かれた彼女の個展のカタログだったが、まずはそのなかから束芋さんが綴った文章を引用する。

「いくつもの存在を合わせ集団化することで大きな成果が得られるような場合でも、個の尊重と引き換えなければならない成果であれば、それをよしとしない。」

これを書いた当時、彼女は34歳だったという。偶然の一致だが、同じく自身の34歳のころを述懐した古井由吉さんの言葉が想い出された。

デビューしたのが34歳、これはもういい中年で、世間からはもはや「ヤング」などとはよばれなかった。

だいたいこのような主旨である。

いまの34歳のほうが、40年前の34歳よりずっと若い。
こういう変化が、「時代が変わっていく」ということなのだろう。
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次回作

来月9月は、なにかと忙しくなりそうなのだが、つぎの作品の取材のため、扇子の絵付け職人さんを京都に訪ねるつもりでいる。
絵の方面のことはよくわからないので、予習として読もうと思い、束芋さんの『断面の世代』という本をアマゾンで買い、17日に配達予定となっている。

現在は藝術や職人技がどう位置づけられている時代なのかをしっかり把握して、取材に臨みたい。
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在庫

ここ10日ほどチェックしていなかったうちに、アマゾンでの「骨董」の在庫が17冊から12冊に減り、中古品でも1件出品されていました。
「読まれた証拠」として、うれしく思いました。
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観照

井筒俊彦著「意識と本質」を、今夜、読み了えた。
その最後近くの次のような箇所を読んでいると、「もしこの人がぼくの『骨董』を読んでくれたとしたら、どんな感想を持たれただろう」と、つい想ってしまう。

一方は「本質」の実在性を主張する。他方は「本質」など実在しない、存在は「混敦」だ、と言う。だが、「本質」をはさんで、肯定的と否定的、右と左に分れて対峙するのではない。実は、表層意識の存在観と深層意識の存在観の対峙なのである。すなわち、日常的、経験的意識に現われる存在風景と、非日常的、観照的意識体験として現出する存在風景とが、有「本質」、無「本質」という形で対立するのだ。


余談

きょうの昼、母と電話で話していたら、母は『骨董』を読了してくれたそうで、最後の「月影」が「一番好きだ」と言っていた。
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南村

陶淵明

「移居」其一

  昔欲居南村  昔 南村に居らんと欲せしは
  非爲卜其宅  其の宅を卜せしが爲に非ず
  聞多素心人  素心の人多しと聞き
  樂與數晨夕  數しば晨夕せんと樂ひしなり
  懷此頗有年  此を懷ひて頗る年有り
  今日從茲役  今日 茲の役に從ふ
  弊廬何必廣  弊廬 何ぞ必ずしも廣からん
  取足蔽牀席  牀席を蔽ふに足るを取る
  鄰曲時時來  鄰曲 時時來り
  抗言談在昔  抗言 在昔を談ず
  奇文共欣賞  奇文 共に欣賞し
  疑義相與析  疑義 相與に析つ

昔南村に住みたいと思ったのは、家相を占ったからではない、潔白な心の人が多いと聞き、一緒に暮らしたいと思ったからだ、このことをずっと考えてきたが、いまやっと引っ越しすることができるに至った(晨夕は朝夕顔を合わせること)

家は決して広くはないが、雨露をしのげればそれでよい、隣人が時折来り、声を弾ませて四方山話をする、良い詩ができればともに鑑賞し、わからないことがあれば、一緒になって解釈する(抗言は声をはずませること)


お盆休みの週末の、静かな夜だ。
誰もが南村のような地に身を置いていてほしいもの、と希う。死者も生者も相ともに。
そうすれば、心もやすらいでくることだろう。

よいお休みを。
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潜在能力

ある本を読んでいたら、「出来事」という語に「イベント」jというルビが振ってあった。

event の語源は、「外へ出る」という。
外へ出る前は、どこにあったのか?

若いころには、「潜在能力」などという言葉をよく使っていたことが懐かしく想い出された。
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夜の蝉

夕方、人と待ち合わせをしたところ、その人の仕事の都合で一時間ほど待つことになり、私はきのう書き始めた創作のノートを取り出し、それほど書き進められるという期待も抱かず、デパートの休憩所の椅子に腰掛けていた。
「二十年も忘れていた感覚を取り戻したようだった」という着想が口火となった。これは頭で考えていただけではどうしても捕まえられなかったものだろう。「書く(表現する)」ということは、「書いて(表現して)いきながら、同時に思いついていくこと」なのだと思った。

深夜1時。
きのうはこの時間でも向かいのマンションの2つの窓に明かりが灯っていたのに、今夜は真っ暗。零時のニュースで「渋谷はまだ29度8分あります」といっていた。その暑さのせいか、蝉の鳴き声のようなものが途切れなく聞こえているが、耳を澄まして団扇を使っていると、それが秋の虫の音ともまぎらわしくなってきて、過ぎゆく夏を惜しむ心をはや先取りしているかのようだ。
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